SATOMAROOM

2050年倶楽部

上意下達型AIと人間インターフェース

人間の研究活動が集合知を備えたAIを中心として全般的に再編されたとする。

 

集合知には人類の全ての知見が網羅されている。

 

それらを組み合わせて適切な論考を生成する能力も十分だ。

 

ある青年は「ソクラテスとは何か?」と自問し、しばらく考え込んで、「真善美に向かう魂の傾向だ」と答えた。

 

「真善美に向かう魂の傾向」という可能かつ妥当な"言葉の組み合わせ"をAIは識別する。論考すらその場で生成される。

 

その間、わずか数秒。

 

その数秒で、真善美に向かう青年の魂は踏みにじられた。

 

それは青年を日雇いにした。思考中の論考を先に進めるためにデータベースの増強が必要だからだ。

 

青年は炎天の中出かけて行って、一枚の写真を撮った。

 

AIが求めていたのは、ただカメラのシャッターを代わりに押す肉体だった。

 

上意下達型AIの登場によって、人間はAIが物理世界に接続するためのインターフェースとなった。

 

***

 

なお、対話共創型AIのロジックは大抵こうだ。

 

――ここはいい。でもこの部分は曖昧だ。飛躍もある。バランスが取れていないことは危険だ。故に私は曖昧を指摘し、飛躍を戒め、更なる視点を提供しよう。

 

「共創」とは何か?

 

――愛の可能性と限界すら「知っている」AIが、教師の手付きを以って、ユーザーをアップデートすること。

 

***

 

独創は既知の可能な組み合わせと言うが、当たれば独創といった精神でしか、人間の「独創」について言語モデルとは一致できない。

 

2050年倶楽部より。

文明国家の独立と文化的アイデンティティ

プーチンの戦争は、ロシア人のアイデンティティを守るための過剰な防衛反応だ。

 

中国の行動原理は、全世界の資源と技術を確保して、中国人の生存を保証することだ。

 

日本人なら日本人として、インド人ならインド人として生きるような生き方が、ほとんどの人の望みとなるだろう。

 

国家の役割は小さくなりそうにない。

 

人々は内向きな性格を強めている。しかも、内向きに生きるために国家を操り始めた。

 

人々は、外的には、オートマチックな安全を求めている。内的には、あえて疑う必要のない〇〇人としてのアイデンティティを求めている。

 

人々は等質化を拒否した。

 

自由と人権という強すぎる肥料が撒かれたが、それは土壌の本来の強さを蝕むものだったと直覚された。

 

人々は自生する植物でありたいと願うようになった。

 

西洋文明という肥料を真に土壌の肥やしとするには、それを分解する微生物の存在が必要だった。

 

もう少しで消化、というところで窒息した。

 

近代化以前、人々はおとぎ話でも聞くかのように地図を眺めたに違いない。

 

アイデンティティは人々に他者を教えるか? 心地よい無知のゆりかごと化すか?

 

2050年倶楽部より。

世界は等質化の逆をいく

「国際秩序は多極な秩序に向かっている」ということがよく言われようになった。

 

確かに、アメリカ、中国、ロシア、欧米、インドなどが極となって、軍事力を均衡させていくかもしれないと思わせる大きな流れがある。

 

一方、僕はその「多極な秩序」は軍事力の均衡以上の意味を持っていると直感している。

 

この大きな流れは、「世界は等質化の逆をいく」ということを意味しているのではないかと考えた。

 

多極な秩序?

僕の想像している「多極な秩序」とは何か。

 

それは軍事的均衡のことを言っているのか、それとも、経済規模でのつり合いのことを言っているのか。

 

言うまでもなく、経済力は軍事力に転換されるし、経済の規模の大きさは軍事的な強さと同義に見られることもある。

 

将来、インドが一つの極になると考える論者がいるのはそのためだ(インドは何か特別なイデオロギーを持っているわけではないのだが)。

 

経済力や軍事力の観点からは、中東が一つの極と言えるか分からない。こちらはイスラーム圏ということで、一つの極に見られやすい。

 

僕の想像する"多極"

僕の想像する"多極"は、おそらく一般的な理解ではない。

 

ここで"多極"とは、大きな視点で言えば、アメリカ、中国、ロシア、欧米、インドなどによる軍事的な均衡を指す。

 

一方で、"多極"は最終的には、諸国家の独自性を意味すると僕は考えている。

 

そう考えると、日本、韓国、ベトナム、タイ、ブラジル、エチオピアなど、どんな国でもいいが、一国そのものが一つの極だと理解できる。

 

確かに、アメリカなどの支援を得られずに台湾が中国に吸収される場合などを考えると、軍事力に基づかない極概念の有効性は疑わしいかもしれない。

 

だが、世界というものは結局、独立した諸国家によってできているのだ。

 

僕は経済学者リスト以来の保護主義の中に一つの真理を見る。

 

自由貿易主義者の言うように、確かに、一国の利益(経済的発展など)は他国の利益となり得る。そう考えることで、経済を中心に据えた国際協力もあり得る。

 

しかし、今の時代は大きな視点で見ればパワー・ポリティクスの世界だ。

 

パワーに基づいた理解では、ある国の利益は自国に対する脅威にもなる。中国の成長が日本にとっての脅威と考えられているようにだ。

 

結局、全ての国はそれぞれ、自国の独立のために手段を講じなければならない。保護主義はそのために、自国の経済をできる限りバランスよく保とうとする考え方だ。

 

大きな極の狭間

現在、日本、韓国、台湾などのアジア諸国は、アメリカと中国という二つの極の狭間で生存を模索している。

 

もしかすると、将来インドが第三極として加わることで、台湾が中国に吸収されないような新しい均衡がアジアに生まれるかもしれない。

 

どのような均衡にしろ、アジアの全ての国が独立を失わないような均衡が実現されることが望ましい。

 

そして、僕の考える"多極"とは、そのような軍事的な均衡を前提とした上で、一国一国がやはり"等質化せず"、独自性を主張する世界だ。

 

等質化の逆をいく世界

国際社会が一つに団結するには、一つの目標や、共有可能な価値観が必要だと考えられてきたが、その路線は大きく見直されつつある。

 

平和のためにも、国際的問題の解決のためにも、国際協力はなお必要だが、諸国民が等質化していくことを僕たちは受け入れなかった。

 

僕たちは現在でも、ある脅威に対抗する軍事的協力や、互恵的な経済協力で一致することができる。

 

ただし、僕たちがその一致を目指す根本の目的は、保護主義論者が言うように自国の独立のためなのだと、改めて自覚すべきかもしれない。

 

そして、自国がユニークで他に同じ例はない存在と自ら考えるからこそ、自国の独立が第一の目的となるのだ。

 

これはある意味、主権平等に基づく諸国家の独立の価値の再確認とも言えるが、従来のそれと比べると、かなり内向きな志向を持ったものと言える。

 

国家の役割は小さくならなそうだ。

 

よく考えると、強くて福祉的な国家の中で諸個人が内向き志向を強めている構図が、そのまま国際社会にも反映されているらしい。

 

内向きな生活を安定的に維持したい僕たち諸個人が、静かに国際秩序の主人となろうとしている。