なぜ経済について考えるのか?――共同体意識という生命線

最近、僕は外山滋比古を読み始めた。

 

最初に『乱読のセレンディピティ』を読んだが、更に興味が湧いて、『思考の整理学』に進んだ。どうせならと思い、図書館で他にも数冊借りた。

 

だが、僕は乱読ではなく精読するので、なかなかページが進まない。単に読むペースが遅いだけでなく、細部まで読むために根気を使うので、気持ちが失速しがちだ。

 

現在は徐行どころか、一時停車している。エンジンはまだ冷えていないと信じたい。

 

外山滋比古を僕なりに素朴に咀嚼した。

 

本を読むことはいいことだが、自分でものを考えて、新しいアイデアを得たり、現実を実感を持って理解する努力が別途必要なのではないか。

 

そこで、毎日一つのテーマを設定して、その日の終わりに考えたことを日誌としてまとめたらどうかと考えた。

 

朝にテーマを設定して、夜にまとめるのがポイントだ。短時間でも考えを寝かせておくことで、ほんの気持ち程度かもしれないが、「発酵」させるわけだ。

 

ものは試しだ。さっそく、実行した。

 

今日のテーマは「経済」に決めた。昨晩から、僕の関心は経済に向いていた。

 

僕は経済学部を卒業した。だが、「経済とは何か?」という基本的な問いに答えることもままならない。それではいけないという反省は常に抱いている。

 

一応、経済とは生産、分配、消費に関係することだ、ということは何となく検討がつく。

 

経済とは富に関係することだとも言えそうだ。富とは、ものやサービスを指している。だが、僕はものやサービスを富だと決めつける図式がやや気に入らない。

 

うろ覚えだが、戦間期の日本は、すぐにボタンの取れるシャツやら、重量を誤魔化すために重りを加えた商品やらを海外に輸出していたらしい。

 

それは、果たして富と言えるだろうか。少なくとも、僕はそう思わない。

 

工業化以前のヨーロッパでは、ワインや衣服は当たり前のように富と言えたのかもしれない。想像に過ぎないが、一定以上の質と希少性のためだ。

 

粗製乱造でもGDPには含まれるから富になる。もちろん、買わない人は買わない。僕たちの生活の質は生産・販売者のセンスに依存している。

 

経済成長や技術革新は一応、経済政策の目標にできる。必要な資金の流れを作って経済活動を促進するなど、人為的介入が想像できるからだ。

 

一方で、生産・販売者のセンスやモラルへの政策介入を考えることは難しい。それらは各人の理想やモチベーションに委ねられている。

 

そこで、経済学とは経済成長や技術革新など、物質的・数値的に扱える目的を追求する学問だという説明と、経済学は富(=幸福)の増大を追求する学問だという説明とが微妙に分離することになる。

 

実際、少なからぬ経済学者が、経済学を富の増大や、その最適な分配を目指す学問だと思っているはずだ。ビジネスマンや起業家の成功のための学問、ではおそらくない。

 

経済学はビジネスマンや企業家の成功を保証しないが、知識人に必須の教養ではあると僕は思っている。

 

それは、昨今の物価高がどのような理由で引き起こされ、数式やグラフを用いてどのように説明可能かを口頭説明できる能力の問題ではない。

 

そうではなく、地理的・歴史的に普遍な人間の活動についての理解の問題だ。

 

人間とは何か。日本人とは何か。知識人とは、僕たちは一体何なのかについて、一般人よりも多く思考し、答えの用意のある人々のことだと思われる。

 

唐突のようだが、最近、アルテミス2というミッションが実施されたばかりだ。4人の宇宙飛行士を乗せた宇宙船が、今現在も月軌道に向けて進んでいる。

 

アメリカ、中国、ロシア、インドなどの国は、単独でも月へ自国民を送る計画を持っているようだ。

 

日本には、ない。将来的に日本人が月に向かう宇宙船に参加する可能性はあるらしいが、そういった大きな計画は、日本は国際協力の一部としてやる。

 

もちろん、経済合理性などの問題はある。

 

しかし、国家としての野望を全く持たなくなった国が、どれだけそのアイデンティティや活力の問題に苦悩するかを、僕たちは実感してきたはずだ。

 

排他的で攻撃的なナショナリズムは慎まれるべきだが、適度に自国を誇ったり、その将来に期待する気持ちはあった方がいいだろう。

 

終戦から80年が過ぎた。自分が生まれた国とはいえ、国家に期待したり、努力の目標にするという考えは古臭く、血気盛んに思われるかもしれない。

 

だが、適切なスケールの共同体意識を持つことは、経済について考える上でも必要なことだと思われる。

 

人類の一員として、世界市民の一員として、という考え方も立派だし、必要なことだが、まずは日本人として、自分が思う"日本人"になるということが、現実的である一方で簡単なことではないと考えた。