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僕たちは意見がないわけではない――"意見"の基準値を下げてみよう!

意見がないというのは辛いことだ。

 

何より不安になるし、自己肯定感も下がる気がする。

 

よく日本人ははっきりとした意見を持ち、自己主張することが苦手だと言われる。

 

だが、本当にそうだろうか?

 

今回は、僕たちは実はちゃんと意見を持っていて、持っていないと感じるのは、「意見」の基準値が高すぎるからなのではないかということを一緒に確認したい。

 

"意見がない"という悩み

前の記事でも述べたが、現代は問題が山積みだ。

 

大きな視点で挙げただけでも、戦争、環境、少子高齢化、AIの問題から、貧困、格差、自由、人権、生物多様性、持続可能性まで、無数の課題がある。

 

より具体的には、「トランプ大統領をどう捉えるか」、「日本はもっと軍事力を高めるべきか」など、例を挙げ始めたらきりがない。

 

はっきり言ってお手上げだ。

 

それにも関わらず、話題にしている問題について、できる限り詳しく知っていないと発言を許されないような雰囲気だってある気がする。

 

僕たちが"意見がない"という悩みを抱くのも当然だ。

 

完璧主義から直観へ

仮にたった一つの問題だけを取り上げたとしても、僕たちがそれに関する事実を完璧に調べ上げ、結論に至るための学問的な原理・原則を全て理解して、しかも絶対的に納得して適用することは、たぶん無理だ。

 

よく考えてみよう。

 

そういうことができているなあと感じる学者や知識人を、僕たちは一体何人知っているだろうか?

 

おそらく、そう何人もいないだろうし、もしかしたら現代には一人もいないかもしれない。

 

だから、僕たちが"意見がある"と胸を張って言うために、先に述べたような完璧な状態を目指すべきではない。

 

じゃあ、どうすればいいのか。

 

僕の提案は、「まずは"自分の直観"で判断すればいい」という簡単なものだ。

 

デモンストレーション

具体例でデモンストレーションしてみよう。

 

今回は「あなたは戦争について賛成か、反対か」という問いを考えてみる(もちろん練習なので賛成か反対かはどちらでも構わない)。

 

この問いに関して、自分の意見に自信がない(=だから意見がない)と感じる人は少なくないと思う。

 

まずは、なんで自分の意見に自信がないと感じるのか探ってみよう。例えば、こんなパターンがありそうだ。

 

①賛成とは思うが、それを人に言うのは憚られる。

 

②反対とは思うが、戦争が絶対悪なのかどうかは分からない。

 

③賛成とも反対とも言えない。場合によると思う。

 

④本当に何も分からない。勘弁して。

 

全てが僕たちの"意見"

実際にあなたがどんな理由で、今回の問いへの意見に自信が持てないのかは分からない。

 

だが、僕が思うに、少なくとも自分が、①賛成、②反対、③どちらでもない、④本当に分からない、のどれに該当するのかさえ自覚できたなら、それで十分に"意見がある"と言っていいのではないだろうか。

 

それは本当に意見がないのではなく、自分の中で十分に精査できていないので、他人に強く主張するものでもない、というスタンスの表れと思う。

 

再び、直観へ

ここで直観が大事になってくる。

 

今回に限らず、意見というものは、①賛成、②反対、③どちらでもない、④本当に分からない、のどの立場になってもいいと考えるべきだ。

 

だが、自分にその立場を選ばせた直観にちゃんと価値を与えないと、なんで自分がその立場なのかが分からないし、意見に自信が持てる見込みはなくなる。

 

④本当に分からないという立場の場合でも同じだ。

 

なぜなら、直観に目を向けてみると、「戦争は怖すぎて考えたくもない」、「この問題には関わりたくない」、「少なくともあなたには言いたくない」などの判断が隠れているかもしれないからだ。

 

その本音を人に打ち明ける必要はない。だが、自分だけは自分の直観を知っていてあげた方がいいだろう。

 

自分の歩調で

直観というのは主観だから、意見と意見をぶつけ合う議論にはふさわしくないと感じる人もいるだろう。

 

だが、そもそも、多くの人にとって「議論」という想像を広げながら、自分の意見に自信を持つなどということは、ちょっと気持ちが先走り過ぎている。

 

そうではなく、自分の直観から始めて、自分の歩調で自然な意見を育てていくという心構えでいた方がいい。

 

実際、急がば回れではないが、直観的に納得したところから議論を始めないと、少しずつ自分の気持ちがついていかなくなるだろう。

 

そんな人生が嫌だから政治については考えない、という人だっていると思う。

 

直観の利点

直観から始める利点もちゃんとある。

 

直観を大事にするということは、自分の感覚からものごとを判断し、理解していく態度なので、自分の実感のこもった形で世界を把握することができるということだ。

 

例えば、直観で「戦争には反対だな」と思ったとする。

 

その理由は、「戦争には参加したくないから」、「生活が乱されるから」など、ごく単純なものかもしれない。

 

だが、その感覚は視点を変えれば、あなたが「自由」というものを、自分なりの実感として感じていることを意味しているかもしれない。

 

更に言えば、その「自由」を国家的に、あるいは集団的に制限しようとする潮流が「全体主義」なのだと理解できるかもしれない。

 

これは一例に過ぎないが、「戦争について反対だな」という直観を働かせることで、「自由」や「全体主義」という概念についても理解し得るのだ。

 

直観は変わらない

サイコロの目が何になるかといった問題に関しては、直観の当たりはずれを語ることもできるだろう。

 

しかし、自分の意見に関わる直観には、当たりはずれは存在しない。

 

当たりはずれには関係しないが、自分がどう感じて、どう感じないのかという問題には大いに関係している。

 

しかも、僕の経験上では、直観(=自分の感じ方のベース)は長い目で見ても大きくは変わらない。

 

変わるところ・変わらないところ

最近、僕は以前からそう思っていたが、確信を持つほどではなかった判断や考え方に関して、改めて「やっぱりそうだな」と思うことが多い。

 

例えば、僕は最近理由があって、人に相談したり、人の意見を取り入れることを自分の課題にしている。

 

それによって、僕の行動や判断の仕方はかなり変わったように思うし、人を信頼することの大切さを学びつつある。

 

だが、僕の直観(感じ方のベース)は、「自分のことは自分で決めろ」だ。

 

直観が完全にひっくり返ることは、たぶんない。

 

しかし、尖り過ぎているものが丸くなって、そのために今までとは別の行動を取り入れることができるようになる、ということはありそうだ。

 

"考える"とは何なのか?

ある問いに対して意見を持つということは、何か"考える"という作業を経て始めて達成されることのように感じていたかもしれない。

 

だが、この記事の趣旨は、自分が大体どんな立場なのかということは、ちゃんと直観を働かせれば導き出されるものだということだ。

 

では、"考える"という作業は、僕たちが意見を持つために、どのような位置にあるのだろうか。

 

それは難しい問題なので、僕もはっきりと説明することはできないが、一つ指摘しておくべきなのは、"考える"とは"調べる"ことではないということだ。

 

というのも、考えることは自分の経験と直観さえあれば可能だが、調べることは何か資料がないとできないからだ。

 

この記事の最初に言った通り、僕たちはある問題に関する関連事項の全てを把握することなどできない。

 

だから、考えることと調べることが一つになり、考えてからでないと意見を持つ資格はないと感じてしまっているなら、一生終わらない調べものをしているだけの人生になってしまうかもしれない。

 

結論

直観を大切にして、いつもより少しだけ自分の意見に自信を持ってみることは、今すぐにでもできる。

 

確かに、直観で芽吹いた自分の意見を育てていくためには、調べたり勉強したり、議論をすることも必要だ。

 

しかし、僕たちはあまりにも問題が多様で、その一つ一つについて把握するのも困難な時代に生きているのだから、実現不可能な完璧主義は捨てるべきと思う。

 

直観を拠り所に意見の基準値を下げてみることは、きっと僕たちの自己信頼度を高めてくれるに違いない。

 

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