知識は素材、教養は視点

単に頭の中に知識を詰め込むだけでは、本当に教養のある人間にはなれない。

 

知識と教養とは区別されるべきだという、そのような考え方は最近では珍しくないどころか、一般の人々を勇気づけるものですらある。

 

少し検証してみよう。

 

何でもいいが、僕はチリという国が銅の生産で有名だということを知っている。

 

チリのアタカマ砂漠は地球上でも最も乾燥した場所だし、チリ産ワインは安くて美味いで人気を集めている、ということも知っている。

 

時事問題で言えば、ロシアによるウクライナ侵攻では、ウクライナ産の穀物や、ロシア産の原油・天然ガスの供給の問題が生じた。米国によるイラン攻撃では、ホルムズ海峡の事実上の封鎖で原油価格が高騰している、と知っている。

 

食料や資源がどのように供給され、僕たちの生活に影響しているのかを知ることは、確かに重要なことだ。

 

ただ、ウクライナやイランに関することについては、ニュースを少しでも見ていれば誰でも知ることができる。

 

チリの銅については、確かに地理に興味がなければ知る機会は少ないかもしれないが、それでも知っているか知らないかの問題に過ぎない。

 

一方、アタカマ砂漠やチリ産ワインについては、少なくとも僕にとっては、少しだけ事情が異なる。

 

というのも、これらは、僕が宇宙やワインに興味があるから知っている知識なのだ。だから、これらの知識は僕の趣味や生活と少なからず結びついている。

 

整理すると、一口に知識と言っても、ニュースを見ていれば誰でも知れるようなこと、少し読書の幅が広ければ知っているかもしれないようなこと、趣味や生活と結びついているようなことの三つがあると分かった。

 

僕が上に挙げたような知識の中で、これこそは教養だ、と言えるようなものがあったかどうかは分からない。

 

それどころか、もし僕が、自分の教養をひけらかす目的で、以上のような知識を書き連ねていたとすれば、おそらく読者は辟易しただろう。

 

僕たちは、日常の会話の中では、相手の知識の披露など別に求めてはいない。

 

はっきり言えば、余計なお世話というわけだ。知識など、自分の知りたい時に知ればいいだけではないか。

 

というわけで、知識と教養を区別することで、知識なんてものは知っていても、知らなくてもどちらでもいい、といったような立場を得られる。それで、一般の人々は心強く思い、安堵するのだ。

 

だが、少し待ってほしい。

 

ここまでの検討で、知識は知っているか知っていないかの問題に過ぎないと分かったかもしれないが、結局、教養とは何だったのだろうか?

 

僕は、チリの銅の話にしろ、アタカマ砂漠やチリ産ワインの話にしろ、それらが自分の教養を示すものだとは、自信を持っては言えない。

 

なぜなら、確かに僕はそれらを知っているが、例えば、「日本としてチリの銅や、ウクライナやロシアの食料・資源をどのように考えるか」とか、「アタカマ砂漠は地球についての理解をいかに触発するか」とか、そんなことを聞かれても僕は答えられないからだ。

 

要するに、僕はそれらの知識を単体としては確かに持っているのだが、だからといって、それらを何らかの視点(View)に昇華しているかと言えば、そんなことはないのだ。

 

教養とは第一に、深められた視点のことだ。

 

知識人への憧れというと、今時ではむしろ危ういものとすら思われるかもしれない。しかし、そのような憧れを持つことも実は当たり前の欲求と思う。

 

知識人といっても専門家ではないのだから、先に例として挙げたような問いに、彼らが答えられる保証も、義務もない。

 

だが、彼らは、僕たちが人間であること、日本人であることについて、自分なりのViewを得て、深めるために、日々思索している人たちだ。

 

そのような思索は結局、ものを考える上で、全ての前提となるような一大問題に関係している。

 

実は、僕は今回の日誌のテーマを「日本人とは何か」にしようと考えていた。

 

少し考えて、文化についても並行して考察しなければいけないと直感したから、サブスクでNHKの番組『新日本風土記』も参考に見た。

 

今回は、なぜ「日本人とは何か」というテーマを設定したかについての説明をするだけで長くなってしまったから、ここまでにする。

 

出雲の玉鋼(たまはがね)という例を得たのはよかった。文化は継承という要素を含む一方、僕たちの生活は段々、一代限りの頼りないものに変化している。