SATOMAROOM

2050年倶楽部

生活がミクロ化する中で、僕は未だにマクロな思想を求めている?

近頃、僕はどうせ本を読むなら徹底的に考えながら読もうと目標を立てている。

 

何かを読むというきっかけは必要だが、できる限り自分の頭で考えて新しい視点を得たいし、すでに一度考えたことのある視点くらいは、そこで回収しておきたいからだ。

 

昨日は司馬遼太郎の『この国のかたち 一』(文春文庫)の中の最初のエッセイ「この国のかたち」を読んだ。

 

この文章は、「日本人は、いつも思想はそとからくるものだとおもっている」という司馬の友人の言葉で始まる。

 

ここで、「思想」とは「他の文化圏に入りこみうる」普遍的なもので、仏教、儒教、キリスト教、イスラム教、新しいものになると、マルクス主義、実存主義などが例として挙げられるという。

 

確かに、日本の思想動向と言えば、大化の改新の頃は隋・唐の律令制、明治維新の頃は西洋の近代文明のように、日本は外来の思想によって一気に国の形を改めてきたという理解が揺るぎなくある。

 

司馬の理解は日本の知識人の間にある通念の再表明と言っていいだろう。

 

外山滋比古などは、外来の知識を頭に詰め込むだけで自分ではものを考えないような日本人の傾向を苦々しく思っているようだが、司馬の方は、この辺り意識的に価値判断を避けているように見える。

 

司馬の文章中、普遍的な思想の形成プロセスを彼がどのようにイメージしているのかについて想像させられる、以下の部分に注目した。

 

古代中国の土俗の中で息づいていた家族主義が、孔子によって、大陸内部の諸民族のレベルを超えた普遍性をあたえられた、という例(...)

 

ここから、単純に次のような図式を得られる。

 

①土俗→普遍

 

一方で、以下のような司馬の指摘を見てみたい。

 

思想とは本来、血肉になって社会化さるべきものである。日本にあってはそれは好まれない。

 

得られる図式としては、次のようになるだろう。

 

②普遍→土俗

 

①の図式が普遍的な思想の形成パターンだとすると、果たして②の図式がそもそも成立するものかどうかについて、僕は疑問に感じた。

 

本来の問いは、「日本人に土俗の生活規範はあるか」、「それは思想化され得るのか」なのではないかと、僕は自分の違和感を整理した。

 

司馬は価値判断を避けるから難しいが、彼もまた、多くの知識人と同じように、現代哲学にしろ何にしろ、自分の血肉にできなくて何になるのだという批判意識を共有していたのではないだろうか。

 

現代人の思想的動向、あるいは心的生活の傾向には、顕著な個人主義化が認められる。

 

個人主義といっても、ただ単に思想のスケールが個人レベルにミクロ化しているという事象を言っているつもりだ。

 

例えば、最近本屋でよく見かけるようになった、精神科医やカウンセラーの書いた心のケアのための本などが、僕は新しい傾向をマークするものと感じる。

 

僕たちは人類、日本人、社会人としての自分ではなく、一つの心と生活を持った、たった一人だけの自分、という前提で生きるようになった。

 

だから、思想や知識のほとんどは、自分の生活をわずかにでも変化させ、より精神的、物質的に豊かになろうという目的で享受される。

 

そう考えると、「日本人とは何か?」といったような問いの周辺で探求を行うことは、現在ではかなり、純粋に知的な興味の領域の営みと言えそうだ。

 

日本人の再発掘によって、土俗を普遍に近づけ、日本人一般の生活規範を刷新、再確立するという動機も想像されるが、逆風が吹いている。

 

日本人の心や生活は、以前よりも個人レベルで切り離されているからだ。思想家がより大きな漁場で勝負することは難しくなっている。

 

僕は「日本人とは何か?」というテーマを一つの軸として持っているつもりだが、そこで新しい思想的中心軸が生まれるなどとは期待しない方がいいかもしれない。

 

思想にせよ、知識にせよ、僕らにとっては参考のたった一つに過ぎない。中心軸は思想にではなく、他ならぬ自分自身に求めなければ、いばらの道だ。