スペシャリスト的? ジェネラリスト的?

僕たちは本や新聞を読んだり、頭の中で考えたり、それぞれの興味関心に導かれて、探求をしている。

 

その探求のスタイルには二つの極が考えられる。

 

一つには、スペシャリスト的な探求の仕方がある。

 

皮肉で言うのではないが、専門家というものは、同じ事柄について同じ見解を述べていることの方が多い。しかし、かように重宝されている。

 

そもそも、探求には膨大な時間が必要だが、僕たちの時間は有限なのだから、専門家を責めるには当たらない。

 

あれもこれも調べ回って頭の中に詰め込んだり、その全てに一つの意味を見出すのが難しいのは当然のことだ。

 

もう一つは、ジェネラリスト的な探求だ。

 

自分のテーマが一つに定まらない場合や、色々なことを広く浅く考えることが楽しい場合などは、ジェネラリスト的になりやすいかもしれない。

 

僕はジェネラリスト的に近い探求をしているが、正直に言えば少し頼りなさを感じる。

 

着想や仮定は色々あるが、そのどれか一つでも、確かな量の事実や経験を掘り下げることで、確信を持って主張できるようになればいいと願っている。

 

一方で、自分の着想や仮定の中から、そのどれを中心的に証明していくかという踏ん切りは全然つかないようだ。

 

例えば、僕は今日、司馬遼太郎の『この国のかたち』を少し読んだ。

 

最近、僕は「日本人とは何か?」というテーマを一つ持っているのだが、その問いの意味するところが、「日本人は何を感じているのか?」という問いに実質的に近いということが明らかになった。

 

しかし、僕は一生を捧げて、同じように問い続けたり、その問いに答えるために文献を読み漁っていくだろうか。

 

話が途切れるようだが、儒教を創始したのは孔子だ。

 

仏教やキリスト教と同じように、儒教は普遍的な思想と言っていい。儒教は中国の土着的な思想であるだけでなく、韓国や日本に移入されているからだ。

 

司馬などの知識人の頭の中には、思想というのは普遍的であり得るものだという前提があるように感じられる。

 

実際、司馬のドイツ人の友人は、家具や建築における日本人的な美観の海外への影響を彼に指摘したのだが、それはデザインの問題であって、日本人や国家の形成の問題ではないと、司馬はやや割り引いて受け取っている。

 

日本史的に言えば、7世紀の隋・唐の律令制や、明治維新の頃の西洋文明というものが、司馬にとっての思想のイメージなのだろう。

 

僕が最近読んだもので、比較として持ち出したいのは、小林秀雄の「私の人生観」だ。

 

この講演録の中で、小林は仏教的な「観」の心が日本人にはあるのではないかといったことを述べている。

 

通俗的過ぎるかもしれないが、とはいえ、僕たちは散る桜を見ると、何だか不思議な気持ちになったり、胸がざわついたりするものだ。

 

そういった心の共通性と思想との関係性はどうなっているのだろう。僕は今回、そのように考えた。

 

そのため、「日本人とは何か?」という問いが、実質的に「日本人は何を感じているのか?」という問いと同じだと分かったという次第だ。

 

僕の問いのテーマはブレているように思う。

 

なぜなら、僕にとってその問いは、日本史の問題でもありそうだし、思想の問題でもありそうだし、文明の問題でもありそうだからだ。

 

僕は一体、スペシャリスト的な探求の態度を、どのように取り入れればいいのだろう。

 

それには、まず自分の確信的な問いを明確にすることだろうとは思うのだが、僕はややそれが弱い。

 

近頃は日本史に近付いている。それは、せっかく日本人なのだから、他の何者かを目指すのではなく、日本人になることが自己受容の近道だと思ったからだ。

 

だが、日本人だからといって、ちゃんと日本人になることは案外難しい。現代を生きる僕たちの生活には、代々の継承という地盤が緩いからだ。

 

代々の継承という要素は、文化の条件の一つだと考える。

 

そんなことは当たり前のようだが、NHKの『新日本風土記』のキャッチフレーズは、「風の中に、土のにおいに、もういちど日本を見つける。私を見つける」だった。

 

すなわち、日本は再発見されるべきものなのだ。

 

僕は素直に司馬や小林のような知識人への憧れがあるが、彼らの共通点は、人間や日本人とは何かという問いへの視点があることだと思われる。

 

ただ、それは僕がジェネラリスト的な読書経験から抽出したものに過ぎない。

 

もちろん、考えるべきことはたくさんあるのだが、では、一体何を考えたいのかと改めて問うてみると案外難しく、僕は愕然としている。