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2050年倶楽部

創造性の一つの条件――自分に納得すること

ものを考えるとはどういうことだろう、という根本的な問いの前で立ち止まっている。

 

創造性がかように重要視される世の中だから、ものを考える生活に憧れや切迫した必要性を感じている人も少なくないだろうと推察される。

 

僕が外山滋比古を読んだのはつい最近のことだが、彼の『思考の整理学』は僕にもっと徹底的にものを考えようという気を起こさせた。

 

外山滋比古、小林秀雄、司馬遼太郎。僕が最近読んだ「知の巨人」たちだ。僕は素朴に彼らに憧れている。

 

知識人とは単に知識があるだけでなく、人間やその生活、また日本や日本人のことに関して、関心や視点がある人たちのことだと僕は考えている。

 

一方、テレビのコメンテーターやクイズ番組の出演者は知識人や教養人だと言えるのだろうか。

 

新しい事象にその場で何らかの回答を与える能力や、雑学のようなものでも知識の多いことは、もちろん素晴らしいことだと僕は思いたい。

 

しかし、僕はこちらで勝手に、「知の巨人」たちと彼らとの間にある、思考の深さ、密度、射程の違いを感じ取って、勝手に割り引いて評価しているのだろう。

 

極めて素朴で小さな反発心と言えるが、そう考えると、知識人というものは極めて狭き門だと言えそうだ。

 

この通り、ある人が知識人と言えるかどうかの判断は、自分がその人を知的に尊敬できるかどうかというバイアスに影響されている。

 

だから、僕は少数の人しか知識人だと思っていないし、一般に知識人とされているような人でも、あまり尊敬していなかったりする。勝手なものだ。

 

だが同時に、僕はテレビのコメンテーターをすごい人たちだと思っている。

 

それは素直な尊敬とは違うのだが、彼らのコメント質の如何を問わず、日々移り変わる時勢にその場でコメントを与える能力には感心する。

 

そこで、僕はものを考えるとは一体何だろうと疑問に思い始めるのだ。

 

アメリカによるイラン攻撃が始まって、気づけば一月以上が経過した。現在は二週間の停戦のさ中だ。

 

ここ一月、僕はこの事態に関して、どのような立場をとればいいのか分からずにいた。

 

とはいえ、全く何も考えなかったわけではない。

 

最初は、国家元首の暗殺という紛争解決の極端な手法は、国際政治を非常に危険なものにするという直観があった。

 

現状は暗殺する側がアメリカのような優位にある強国に限定されているが、もしお互いが同じ手段に訴えるようになったとすれば、考えるまでもなく、僕たちは政治や経済の安定を永久に失うだろう。

 

だが、僕はこの直観に関しては、今回の戦争の本質だとは思わなかった。もっと他に感じるべきこと、考えるべきことがあるような気がしてならなかった。

 

イラン人はさぞ屈辱だろう――時間はかかったが、昨日からはもう、そうとしか考えられなくなった。

 

僕が突然に違和感に気が付いたのは、日本の政治家もマスメディアも、イラン人の命や生活になどまるで興味がなく、ホルムズ海峡と原油の問題についてのみ関心を示しているように感じられたからだ。

 

高市首相はイラン新大統領と会談すべく努力しているが、ホルムズ海峡については当然国際社会の関心だと言われ、他方、自分たちの命や生活については何も言及されないので、イラン人は驚いているに違いない。

 

停戦に向かう過程におけるトランプ大統領の脅しは酷いものだった。だが、日本もヨーロッパも揃って、何も言うことができなかった。

 

政治は人間の行動であって自然現象ではないから、その実状や定義も可変的であり得る。しかし、今回の一件で政治の定義は僕の中で「国益の調整。維持・増進」とはっきりした。

 

僕には一か月必要だった。世の中の変化がこれほどまでに速い現代において、僕は失格なのかもしれない。

 

とはいえ、今回の場合は、頭の中で全てを理解し結論付けることはできなかった。そうではなく、感情が自然に整理されて初めて自分の立場が生まれたのだ。

 

ものを考えることの目的は、ただその対象を構造や関係性の中で理解することだけではないようだ。

 

僕が興味を持っているのは、僕自身はこの世界でいかに生きていくのか、生きていきたいのか、生きていけそうか。そんな問いだと言える。

 

ものを考える上で客観がより大事か、主観がより大事か、そんな問題には今回は踏み込まないが、あるアイデアや視点の良さというものは、それを考える主体がどのような人間であるかに依存するようにも思われる。

 

ものを考えるのに高みを目指す必要はないが、なりたい自分を目指して、自分に納得していく必要はありそうだ。